最盛期には世界経済を支えた石見銀山の歴史

石見銀山は、島根県大田市大森町の仙ノ山(せんのやま=標高537.8m)を中心とした銀および銅鉱山で、大森銀山または佐摩(さま)銀山とも呼ばれました。

石見銀山は、戦国時代から江戸時代前期(16〜17世紀前半)にかけて、ボリビアのポトシと共に世界の二大銀山と呼ばれ、日本国内のみならず世界でも最大級の銀産出量を誇りました。

石見銀山遺跡には、銀を採掘するために掘られた間歩(まぶ)と呼ばれる坑道や製錬が行われた吹屋(ふきや)跡、銀を運んだ街道が良好な状態で残されています。銀の産出で栄えた当時を思い浮かべながら散策すると、より石見銀山を楽しめるかもしれません。

鉱山の作業風景を描いた石見銀山絵巻も描かれていますので、石見銀山遺跡を訪れる前に目を通しておくと、当時の様子を想像しやすいと思います。

参考リンク
しまねバーチャルミュージアム:銀山絵巻
石見銀山資料館:石見銀山絵巻

石見銀山の歴史

石見銀山の発見
神屋寿禎による銀山開発
灰吹法の導入
石見銀山の最盛期
石見銀山の衰退〜閉鎖

石見銀山の発見

石見銀山についての記録としては、7世紀初め頃、仙ノ山の山頂に光を放つ霊妙仏が出現したという伝説が残っています。また、文化6(1809)年に書かれた「銀山旧記集」には、鎌倉時代の延慶2(1309)年に周防の大内弘幸が北辰星(北極星または北斗七星)のお告げにより石見銀山を発見したと記されています。

しかし、当時は採掘の技術を知らなかったため、地表に露出した自然銀のみを採掘していましたが、やがて、めぼしい銀は採り尽くされてしまったそうです。

参考リンク
しまねニュース:今月のテーマ「石見銀山 その1」pdf形式
山陰中央新報:銀山旧記集
石見銀山資料館:石見銀山の歴史

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神屋寿禎による銀山開発

石見銀山の本格的な開発は16世紀に、博多の豪商、神屋寿禎(かみやじゅてい)によって始まったとされています。

前述の「銀山旧記集」および「石見銀峯山清水寺(いわみぎんぶせんせいすいじ)天地院縁起」には、大永6(1526)年、神屋寿禎が仁摩町の宅野港に浮かぶ韓島(からしま)の沖を出雲に向けて航海中、銀峯山(仙ノ山)が光るのを見たという記述があり、これが寿禎による石見銀山発見の伝説として広く伝えられています。

「石見銀峯山清水寺天地院縁起」によると、「山が光るのは銀峯山にある清水寺の霊が光るのだ」と船頭に教えられた寿禎は、早速温泉津(ゆのつ)に船を泊めて仙ノ山に参拝に行き、その帰り道、足下に光る銀鉱石を見つけたそうです。

寿禎は、石見国領主大内義興の許可を得、三人の掘り子を連れて仙ノ山で銀鉱石を採掘、本格的な銀山開発に着手しました。

参考リンク
森風q業:石見銀山の発見
山陰中央新報:山の形から鉱脈を直感
西日本新聞:九州と縁が深い「銀の島」 石見銀山

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灰吹法の導入

石見銀山の開発にあたって、寿禎は中国から「灰吹法(はいふきほう)」と呼ばれる銀の製錬、精錬技術を導入します。灰吹法の導入以前は、銀鉱石を採掘したままの形で輸送していましたが、灰吹法によって石見銀山で銀の状態にすることが可能となり、大幅な輸送コスト削減と産銀量増加が実現しました。

石見銀山が灰吹法を導入した後、灰吹法の技術は「生野銀山」や「佐渡金銀山」など、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀の産出量は飛躍的に高まっていきました。

ちなみに“製錬”は、鉱石から金属を取り出して精製、加工することを指し、鉱石に含まれている金銀をどれだけ抽出できるかが問題となるのに対し、“精錬”は鉱石から不純物を取り除くことを指し、金銀に含まれる不純物濃度をどれだけ下げられるかという純度が問われるそうです。

参考リンク
Wikipedia:灰吹法
石見銀山資料館:灰吹法実験
冶金の曙:灰吹法前夜

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石見銀山の最盛期

石見銀山の開発および灰吹法の技術が全国に普及した結果、16世紀初め頃までは外国から銀を輸入していた日本は、銀の大輸出国に成長していきます。

16世紀末には、石見銀山はボリビアのポトシにあるセロ・リコ銀山と並んで世界の2大銀山となり、世界の銀産出量の3分の1を日本が占めるようになり、石見銀山だけでも15分の1の量を産出していたそうです。

石見銀山で産出された銀は、銀山街道と呼ばれる街道を通って、大浦湊(おおうらみなと)や鞆ケ浦(ともがうら)、温泉津(ゆのつ)、沖泊(おきどまり) などの港から貿易を通じて国内各地、中国や朝鮮半島などの東アジアへ流通していきました。

さらに、金銀や香辛料を求めるポルトガルやスペインなど、ヨーロッパ諸国が東アジアの貿易に参入するようになると、東西の異なる経済・文化交流も行われるようになりました。

石見銀山で産出される銀は高品質なことで知られ、海外では「ソーマ(Soma)銀」の名称で高い評価を受けていました。ソーマという名前の由来は、石見銀山のあった岩見国邇摩郡(いわみのくににまぐん)の「佐摩村(さまむら)」という地名がなまったことによるものだそうです。ちなみに島根県立図書館デジタルライブラリーの古地図では「佐間村」という名前で記載されています。
石見国絵図(石州古図)

その他、17世紀始めにイギリス商館長リチャード・コックスが書いた「コックス日記」などにも、ソーマ銀についての記述があります。16世紀末にポルトガルのイエズス会宣教師テイセラが製作した「テイセラ日本図」には「Hivami(石見)」、「Argenti fodinae(銀鉱山)」といった記述が見られ、当時の日本が世界有数の産銀国であったことが伺えます。

参考リンク
石見銀山(遺跡)とは:海を渡った石見銀
ハイライトジャパン:石見銀山遺跡
島根県教育委員会文化財課:世界に知られた石見銀山
山陰中央新報:欧州古地図が「価値」証明

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石見銀山の衰退〜閉鎖

石見銀山の産銀量は江戸時代初期にピークを迎え、慶長2(1602)年には年産4千貫(15トン)の銀を産出しましたが、その後は次第に減少、幕末頃には年間約100貫(約375s)未満に落ち込んでしまったそうです。

明治期に入っても石見銀山では小規模な採掘が続けられていましたが、明治19(1886)年、大阪の藤田組(現在のDOWAホールディングス)が採掘に乗り出しました。

仙ノ山南側にある本谷(ほんだに)地区の福石鉱床の金銀含有率(量)に着目した藤田組は、当時最先端の技術と20万円の巨額を投入した清水谷製錬所を建設、明治28(1985)年4月に操業を開始します。

しかし鉱石の品質が予想より悪く、設備の製錬能力も不十分だったため採算が取れなくなり、明治29(1985)年10月に操業停止。藤田組は鉱業の主軸を柑子谷(こうじだに)地区の永久抗道、永久製錬所での銅生産に切り替えます。

優良な銅鉱脈が発見されたこともあり、永久製錬所は最盛期を迎えますが、採掘条件の悪化などで大正12(1923)年には休山。以降、昭和17(1942)年にも銅採掘が試みられましたが、翌昭和18年、台風による水害で坑道が水没、ついに石見銀山は閉鎖となりました。

参考リンク
石見銀山資料館:石見銀山の歴史
Wikipedia:石見銀山
山陰中央新報:清水谷精錬所跡
石見銀山とは:歴史の生き証人

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